狂っているのは自分か、世間か。

少し前に、2つの映画「JOKER」と「WALKING MAN」を観た。
JOKERの監督は、ハングオーバーなどコメディを数多く手がけるトッド・フィリップス。WALKING MANはラッパ―のANARCHY、監督初作品だ。

この2つの作品は国もストーリ―展開も全く異なるが、主人公たちの境遇が”社会から見放された主人公”という描き方をされていた点で共通しているところがある。

このブログのタイトルは、JOKERの冒頭に出てくる言葉「狂ってるのは俺か、世間か?」から。
主人公アーサーは派遣のピエロとして働きながら年老いた母の面倒を見て暮らしている。「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンで成功する夢を抱いているが、笑いが止まらなくなる持病があり他人から気味悪く見られたり、暴力を受けたり孤独な社会生活を送っている。そんなアーサーという一人の男がJOKERになっていく仮定が描かれてる。
↓このシーンかっこよすぎる。
 

一方、WALKING MANの主人公アトムは貧乏で吃音。自分の言いたい事をうまく伝えられず、母の看病、安月給の仕事、世間からの厳しい声の中でぶつける場所のない怒りを抱えながら日々生きてる。
「自己責任」という言葉が作中に沢山でてきて、自分の境遇をその言葉一つで片づけられてしまう世間への不満を感じられた。
そんな中ラップと出会い、自分の気持ちを表現する方法を知り、音楽で成功をおさめる仮定が描かれてる。

 

最終的な結果は全然対照的。w
でもどちらも観て感じたのは、自分の意志で未来は決められるけど、その人が抱えてきた闇すべてをその人のせいにはできないのではないのか。。ということ。
JOKERに出てくる「善悪は主観でしかない」という言葉は強く印象に残っている。
JOKERは人を沢山殺し、殺された家族からすれば悪人以外の何者でもない。ただ、第3者としてJOKERの境遇全体をみていると、ただの”悪”として片づけられない気持ちになるのだ。自分がJOKERだったら、社会の不平等・不条理にどう向き合えるか。と考えてしまう。(ただ、JOKERは途中から妄想癖があることもわかるので、どこまでが本当の姿かどうかは分からないのだけど。)

先日ある番組で、アフリカ西部・リベリアの元少年兵たちの現在を追うドキュメントがやっていた。
親を殺された恨みから、少年兵となりコカインを吸いながら(平常の間隔を麻痺させるため)戦争に参加していた子供たちが、戦争が終わった現在、どうすることもなく墓地でその日暮らしの生活をしているという。
一日生きるための金を稼ぎ、コカインを吸い、ごはんを食べ、生きる。人を殺めた事、コカインを吸うことは悪?
自分がこの子達の立場だったら、人を殺めることなく、生き続けることができるか。

物事が”悪”であるか、”善”であるか。それは結局そのことを判断している人自身の価値観でしか図れていないということを実感した。(人を殺すことは絶対にいけないと言い切れるのだが)

日本だけでも沢山の辛い事件が起こってる。
誰かが沢山の人を殺したり、親が子供を、又は反対も。
人は家族でさえも、自分以外の人の本当の気持ちを知る事は出来ないけれど、
知ろうとしたら、世界は少しは変わらないかな。