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ゲーテといえば文学の巨人として知られていますが、同時に彼は「自然」をめぐって独特の思考を深めた人でもあります。
それは、自然を観察対象としてだけ扱うのではなく、自然の側が持っている生成のリズムに寄り添いながら理解しようとする姿勢でした。
ゲーテは西洋の哲学者の多くに影響を与えましたが、この態度は、近代西洋(私の認識では、端的に言うと、分解して把握する個の自立性を重視するスタイル)とは少し違うため、東洋哲学(たとえば仏教や道家、儒家の感覚)と、ふと重なって見える瞬間があります。
ここでは「学術的に同じである」という事ではなく、似て見える共鳴点として整理してみます。
ゲーテは自然を、固定した物体の寄せ集めとしてではなく、生まれて、変化し、形を変えていく流れとして捉えました。
自然を理解するとは、完成された結果を眺めることではなく、そこに至る生成の過程に目を澄ませることだ、と。
この見方は、仏教が語る「無常」や、道家が語る「道(タオ)=流れ」という感覚と、通じるものを感じさせます。
近代科学の強みは、対象を切り分け、要素に分け、因果を明確にすることにあります。
ただゲーテは、その方法だけでは自然の生きた姿が見えなくなるのではないか、と考えました。
彼にとって重要なのは、単体としての部分ではなく、部分が全体の中でどのように結びつき、意味を持っているか。
一枚の葉を見ても、それだけでは植物の全体は語れない。葉は茎や根や環境と結びつき、季節の移り変わりの中で姿を変え、ようやく「その植物としての意味」を帯びていく。
この視点は、東洋思想の「縁起(関係性で成り立つ)」、あるいは儒家的な「場の中で人が育つ」という考え方に響きやすいところがあります。
ゲーテが語ったUrpflanze(原植物)的な発想は、
「唯一の正解としての完成形」を求めるのではなく、多様な形の背後にある変化のルールを感じ取るというものです。
本質は、短い定義の中に閉じ込められるというより、むしろ変化の中に、繰り返し現れる働きとして立ち上がってくる。
この態度は、禅が「言葉で固定しない」ことを重んじる姿勢や、道家が「形を超えた道」を語る感覚と、似て見えることがあります。
ゲーテ的な観察は、対象を外側から測定して“制御する”というより、
見続けることによって、現象の側から見え方が立ち上がってくるのを待つような姿勢を含みます。
理解は距離を置くことだけで成立するのではなく、丁寧に関わり続ける中で深まっていく。
その意味で、禅の修行的態度や、東洋的な“身をもって知る”という感覚と共鳴しやすいところがあります。
自然を機械のように見なすと、世界は「利用できる資源」へと変わります。
ゲーテはそれに抗うように、自然の内側にある秩序や調和――生き物が生き物として在るための生の構造を見ようとしました。
この態度は、神道・道家・仏教に見られる「自然を単なる背景として扱わない」直感とも相性が良い、と感じられます。
自然を完全に言葉へ回収することはできない。
ゲーテは、その限界を知っていたからこそ、自然の理解に詩的表現を許しました。
説明で届かない領域を、比喩や象徴で指す。
この態度は、禅の公案や東洋詩が持つ、言葉の使い方とも重なって見えます。
近代的な発想は、見る側(主体)と見られる側(客体)を分け、客体を客観的に理解しようとします。
けれどゲーテの視線は、そこに強い緊張を置きすぎません。精神と自然は、完全に別世界として断ち切れない。
見る私もまた自然の一部として世界に含まれている、そんな感触が残ります。
この点が、東洋の「主客未分」的な感覚に近いと感じられることがあります。
最後に一行だけ、違いも押さえておきます。
東洋哲学が「執着をほどく/空へ抜ける」方向に進みやすいのに対して、ゲーテは「この世界で成熟する/形をつくる(自己形成)」の熱量が強くあります。
世界の見え方は似ていますが、自己の在り方、進む道や生き方のゴールはちょっとちがうなと思いました。
そう思うと、ゲーテの思想は東洋っぽいのに西洋的という、面白い立ち位置として見えてきます。
編集者:Yuka Fujimoto
Webディレクター / デザイナー。美大在学中に、画面ひとつで世界中の人と繋がれるWebの可能性やデザインへ興味を持つ。インターンを経て就職したIT企業で実務経験を積む。肉より魚派🐟
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