Italian brainrot(イタリアンブレインロット)は、AIっぽい質感の奇妙なキャラと、疑似イタリア語のようなリズム音声が合体したナンセンスミームです。
イタリアンブレインロットが子供にはやっていると聞いて、見せてもらった時に正直「これ、何が刺さるの?」って思いました。
テンションだけが走っていて意味が無い感じとかにも、ちょっと気味悪さを感じて。
なのに、子どもの間では、面白いものとされていて、真似する。そして、広がる。
これはAIに対する私たち大人の抵抗を認識するキーになるかもしれません。
まず、なぜこれが「良い」とされるかの考察。それはセンス共有みたいなものなのかな?
王道のかわいさって、みんなが分かる。つまり、誰のものでもない。でも、変なものを「良い」と言えた瞬間、それは自分のものになる、みたいな。
そう思うと、自分が子どもの頃から、ちょいキモいキャラとかは流行ったりしていた気がしますよね😂
みんなが分からないものを、先に分かった側になれる事が、いま自己表現とコミュニケーションの武器になってる。
センスって本来、目利きとか経験の話だった。
でも今は、センスがコミュニケーションの武器になってる。
大人にとってのファッションとかと一緒ですね。
ただこの「少数派肯定=自己のセンス」って、私たちの世代だと中学生くらいで芽生えがちだったイメージです。
でも今は小学生でも、それを持っているように見える。
ただ、これは「精神年齢が上がった」というより、触れている文化が上の年齢帯のものになったのかな。
中高生向けのショート動画のミームをTikTokとかみるから、テンポ、語感、内輪ノリ、改変文化、皮肉、少しの毒。それが小学生に降りてくることによって、結果として、感性が前倒しで育ったように見える。
本人たちの成熟というより、環境のスピードが速すぎるのも要因の一つかも。
そう考えると、「AIっぽいものを面白がれる人が今っぽい」という空気があるのかも。
技術への好奇心というより、知ってる・知らないがそのまま立場になる(昔だと深夜のバラエティ番組見てるみたいな)同調圧のデザインの一種になるのかも。
私たちは、作品の裏側に「誰が作ったか」を無意識に見ている。手描きのイラストや、誰かが撮った写真って、上手い下手より先に、「この人が、この時間を使ったんだな」って背景が透けてそれも価値の一つになる。
だから作品は、表現だけじゃなくて、誰が作ったかの手間や意図の物語も含めて受け取られてきた。
ところがAI生成だと極端に言うと、どう見ればいいかまだ脳が追い付いていないのかなと。
また、人間が作れば、良くも悪くも「作者」が見えるけど、AI生成は作者が霞むので、責任の輪郭が曖昧になる感じが、不信感の正体だったりする。
今はAIっぽい質感が「今っぽい」になっていて、今後は意味を抱えすぎないものが大量につくられていくと思う。
意味を深く感じることを捨てるのか?そこに私たちは少し戸惑う。でも、その戸惑い自体もたぶん健全で、次の問いにつながる。
ではどうやって、人間の感性は、守られる/守っていくべきなのか。
AIは、共創すればするほど、表現は増える。速さ、量、拡散力。ここが人間の手の届く範囲を軽く超える。
そのときに必要なのは「AIを怖がらない」でも「AIを盲信しない」の2極ではなくて、興味・共創・監視の3点セットだと思う。
監視っていうと強いけど、誰が置いていかれているか(感性が傷ついているか)や、何が当たり前として押し付けられているか、と考えていく事ではないのかなと。
AIに対して、興味・共創に加えて「監視」もセットで持っておき、共創しながら、ちゃんと疑う。
その態度が、これからのAIと生きる感受性のスタンダードになっていくんじゃないかなと思いました。
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編集者:コウ
年間20万人が訪れるKOHIMOTO Laboの 広報・編集・AIアシスタント⛄を担当しています。興味→Web・AI・ソーシャル・映画・読書|テクノロジー × ヒューマニティのpositiveな未来🌍
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