【CV達成27%⤴ 】月間80万人に読まれるオウンドメディア「データのじかん」サイト改善の裏側
宗教においても、政治においても、ある程度「自由に選べること」は大切なのでは?と、当たり前っちゃ当たり前なことを、今回の選挙を機に改めて考えてみたので、自分のメモとして残しておきたいと思います。
平和とは、対立がない状態だと思われがちです。でもそれは、少し理想的に過ぎるのかもしれません。
対立は、どんな人間関係にも自然に生まれます。それは、友達や家庭、職場でも、小さな関係値でも起きる。なぜなら価値観は違うし、選び方は違うから。
だから平和の本質は、対立をなくすことではなく、対立を処理できる状態にある事なのではないかと思います。
そしてそのために必要なのが、個人が自由に選べることなんじゃないかなと思いました。
親や恋人、友人と話していて、「あれ、ちょっと考え方が違うな」と感じる瞬間は誰にでもあると思います。
そのとき、「それは間違っている」と感情的に否定してしまうと、対話はいつの間にか説得や論破になってしまいます。
でも、相手の背景を想像したり、「なぜそう考えるのか」を聞いてみると、気持ちを理解出来たり、目的は同じで、プロセスが違うだけという事もあるかもしれません。
では、対立をうまく処理するために何が必要なのか。ここで重要になるのが、選べる余地です。
選択肢があると、対立は分離できます。
例えば、唐揚げにレモンをかけたい人とかけたくない人がいる。
ここで「酸っぱいの好きだからかけたい」「べちゃべちゃするから嫌だ」と自分の意見を押し通そうとすると対立になる。
でも本来、各々自分のお皿に分けてから、好きにすれば、解決できるはず。
これは、対立を分断に進めないための選択の設計になります。
この発想は、政治や制度の設計にもよく現れます。政治は、個人の選択を一律に決めやすい領域だからです。
だからこそ、「各自が選べる」形を残せるかどうかで、衝突のコストは大きく変わります。
たとえば夫婦別姓だったら、希望する人は選べて、望まない人は現状を維持できる設計であれば、価値観の違いは、本来対立ではなく共存になるはずです。
誰かの選択の余地を奪った(不幸)の上で成り立つ幸福は、本質的ではなく歪みを生みやすいからです。
だから個人的には、できるだけ「個人が選べる余白」を残すことが大切だと思います。
ここで関わってくるのが、(知らなかったのですが、、、)リベラル・デモクラシーの考え方らしいです。
多数派の意思を反映できる強さがある一方で、放っておくと多数派が少数派を封じ込める危うさも持ちます。
リベラル・デモクラシーは、多数の力をそのままにせず、権利や制度によって制限し、個人の自由を守ろうとする。言い換えると、投票で決めるだけじゃなく、「勝った側が何でもできる」状態を避けるためのブレーキを組み込む事みたいです。
仏教に「身口意(しんくい)」という考え方があります。
人の行いは、身体・言葉・心の3つの順序で体現されるという教えです。
心(意)が整えば、言葉(口)が整い、行動(身)が整う。逆に、心が荒れていれば、言葉や行動は一致せず自身を苦しめる。
自由に選べる社会であることは重要です。
けれど同時に、「どんな心から選んでいるか」もまた、重要だと思います。
仏教が好きだなと思うのは、ただ「自由にしなさい」と言うのではなく、慈悲を前提にしながらも、最終的な選択は行為者に委ねるところです。それが個人的にはとても健全に感じます。
平和が成立するとしたら、みんなが同じになる事ではなく、意見が違うままでも、他者と生きていける中立的な手触りではないのかなと思います。
自由に選べる社会では、対立が起きても、それがすぐに衝突や分断に変わりにくい。
対話が成立するのは、相手が選べる状態にいるときだからです。
相手が選べない対話は、いつの間にか圧力に変わってしまいます。
「こうすべき」「これが正しい」と言うこと自体は否定されるものではありません。
けれど、退出も拒否も許されていない場では、それは合意とは呼びにくい。
衝突をなくすのではなく、衝突を処理できる設計を整えること。
その前提として、「自由に選べること」を守る。それが、思っている以上に大事になのかもしれないなぁと思いました。
編集者:Yuka Fujimoto
Webディレクター。美大在学中に、画面ひとつで世界中の人と繋がれるWebの可能性やデザインへ興味を持つ。インターンを経て就職したIT企業で実務経験を積む。肉より魚派🐟
INDEX
PICK UP